第12回:意思決定のための会計(5)<差額収益原価分析の活用>

 前回までの講座で解説した差額収益原価分析は一般的に短期の意思決定に役立つと言われています。これをこの講座で使っている管理会計マトリックスで示すと下の領域にあたります。

 

 それに対して前回の講座で差額収益原価分析の実践例としてみた事業部の存続か廃止かという意思決定は下の領域にあたります。

 

 

 教科書的な観点から言うと事業部の存続か廃止かというような戦略的意思決定に属することを行うときに差額収益原価分析を用いるのは適切ではないという意見もあるのでしょうが、実際の経営判断の現場では戦略的な意思決定の局面においても差額収益原価分析が役に立つ例は少なくありません。

 

差額収益原価分析で「埋没原価の罠」を避ける

 企業に長期間な影響を与える投資など戦略的な意思決定のためには、長期の予測キャッシュ・フローに基づくNPV法・IRR法などが目的に適合すると言われています(NPV法・IRR法については後の回で詳述します)。しかし、NPV法やIRR法は長期間のキャッシュフローを正確に行う必要があるなど、実務上の負担も大きく、また分析のために必要な時間を要するという問題もあります。意思決定にスピードが求めらている現代では、時間をかけて分析した後に意思決定を行うという余裕がなく、結果としてNPV法やIRR法などは用いられないか用いられたとしても意思決定の事後検証やときには理論づけのためのものになっていることが少なくありません。その一方で意思決定を行うプロセスで何の分析も行わず直感のみで決定するということも好ましくありません。従って、比較的容易に行うことができる分析として差額収益原価分析を用いることは意思決定の質を高めることに役立ちます。

 また、戦略的な意思決定を行う場合に陥りがちな罠として「埋没原価の罠」があります。埋没原価の罠は近年注目されている行動経済学や行動意思決定論で指摘されている意思決定の病理現象の一つで、既に支出した投資などの埋没原価にとらわれることで合理的な意思決定を歪めてしまうというものです。

 例えば次のようなケースを考えてみましょう。

 あなたの企業で新製品の開発プロジェクトが進んでいます。プロジェクトの進捗は80%でここまで8億円の研究開発費を投じています。しかし、競合企業がコスト、品質の両面であなたの企業の新製品より優れている製品の開発に成功したことが判明しました。開発プロジェクトが完了して新製品を市場に投入しても利益を生み出せない可能性が高いと思われます。

 あなたは残り2億円を投じて開発プロジェクトを完了し、新製品を市場に投入すべきと考えますか?それとも既に投資した8億円は無駄になることを承知してプロジェクトを中止すべきと考えますか?

 冷静に考えればプロジェクトを中止するということが合理的な意思決定であるということがわかると思いますが、その一方で感覚的には今まで既に投資した8億円を捨ててプロジェクトを中止するということには心理的な抵抗があると思います。実際の意思決定の現場では、時としてこの心理的な抵抗が冷静な判断を打ち負かしてしまうことが起こりえます。この例でいえば、既に投じた8億円を無駄にすることの心理的な抵抗からプロジェクトを中止できず、さらに無駄となる可能性が高い2億円をさらに投じるという判断ミスが埋没原価の罠に陥った結果です。

 行動経済学の研究によって、埋没原価の罠は戦略的な意思決定においても生じやすく、また大きな損害を引き起こす原因となり得ることが明らかにされています。例えば、多額の投資をしたにも関わらず赤字続きのホテルや店舗があった場合に(本来埋没原価である)投資を無駄にすることを嫌って撤退できない例、投入した新製品の販売状況が思わしくなく販売戦略を見直さなければならない時に製品の開発費にこだわって実現性の乏しい計画を作ってしまう例など埋没原価の罠の例は少なくありません。このような意思決定の場面に直面した時に差額収益原価分析を行うことで何が埋没原価で何が差額収益・差額原価なのか把握することができるので埋没原価の罠に陥ることを防ぐことができるのです。例えば上の例の場合は差額収益原価分析によって、既に支出した8億円は埋没原価、これから投資する2億円が差額原価、そして利益を生み出せないということは差額収益は0、合算すればプロジェクト継続案の差額利益はマイナス2億円ということでプロジェクトは中止すべきという結論を導くことができます。

 差額収益原価分析は短期的な意思決定のみでなく長期的な影響がある戦略的な意思決定にも役立つものなのですので、管理会計マトリックスも次のようにとらえるべきでしょう。

 


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